二面性

モボ朗読劇『二十面相』~遠藤平吉って誰?~の幕が閉じ3日、矢花くんのブログが上がったのでゆるゆると感想?考察?を書いていこうと思います。(自己満)


正直言うと1回目見た時は全く内容がわからなかった。原作読んでなかったから元々不安ではあったけど、まさかの江戸川乱歩のいろんな作品から掻い摘んでお話が進んでいく朗読劇だったから予習するべきだったって後悔した。


細かい部分は置いといて、この作品が一番伝えたかったことを簡単に言うと『人によって捉え方は違う』ということじゃないのかな?って思う。

まぁ簡単に言いすぎたのでいろいろ付け足すと、この作品には正解の解釈はないし終わりもない。私たちがこうやって後日考察をしたりすることによって作品は生き続ける訳で、その私たちの中で生き続ける作品もまた違う。だからそこ読書は面白いよねってことだったんじゃないかなって私は考えた。


少し前の矢花くんのブログで


他者から求められる像と

自分の思い描く自己像の乖離を少なくしたい


って言っていてその時に私もいろいろ考えたんだけど、『アイドル』は今回の二十面相のように『作品』だと私は思っていて、ジャニーズに限らずオタクの皆さんはわかってくれると思うんだけど、


オタクは推しや担当を自分の中で勝手に美化して、自分に都合のいいアイドルを生み出してる人が多い。


勝手にアイドルだから女遊びはしてないとかお酒やタバコには手を出していないだとか(これはほんの一例)理想を押し付ける人は多いと思う。


だけど矢花くんは理想像と自己像が乖離することにトラウマがあるって話をしていて、私は理想像と自己像の乖離があるからこそ自己防衛に繋がると思っているから矢花くんにちょっともやもやしてた。


そのもやもやの原因はきっと矢花くんが私たちから『想像する』ということを奪ったからなのではないかなって今回の舞台を見て感じた。


舞台の内容に話を戻すと、

私が明智小五郎だと思って聞いていたセリフも隣の人は作者のセリフだと思っていたかもしれないし、またほかの人は二十面相のセリフだと思っていたかもしれないということ。


明智小五郎も二十面相も小林少年も無限に認識される数だけ存在するよってことを伝えたかったんじゃないかな。


だから『矢花黎』という人間もファンの数だけ存在するわけで、理想像と自己像を一致させることは不可能だと私は思う。

これについて私の想いが詳しく書いてるのがあるんだけど、舞台の内容からはかけ離れちゃうのでやめます。



この作品はスズカツさんの作品ってこともあって、ジャニーズの舞台みたいに内容のない魅せるための舞台じゃなかったから私からしたらとっても面白かった。


言い方は悪いけど、正直ジャニアイやドリボみたいな作品だったらいくら矢花くんが主演でもほぼ全ステなんてしなかったと思う。

考えさせる舞台だからこそ何回みても面白さがあってよかった。


ほんとはもっともっと言いたいこと、考えてることがあるんだけど思っていたより文字にするのが難しい笑

矢花くんのブログすげぇな笑笑


他の矢花担の考察も読んだけど私と全然違う解釈してる人もいるし、まず演者の矢花くんとも考えてる事は違うので小説って面白いなってなりました。ただ活字読むのは苦手なのでまた朗読劇やって欲しいなぁ~、、、。




ただ自分の整理のために書いたブログだけどもし最後まで読んでる人がいたらありがとう!!!!これ読んでる人は矢花黎のジャニーズWebとっても好きだと思うのでおすすめします!!では!!